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明治の時計塔

8. 三原時計店時計塔(仙台市)

国分町 三原時計店

(仙台) 市街(中央)の全景

絵葉書 明治42年8月8日消印あり

時計塔拡大

白漆喰仕上げ、ローマ数字文字板は直径1.8m時打装置付

まだ三原時計店の店舗であったと思われる頃の店舗と時計塔がハッキリと写っている。

(市内) 御大典奉祝 国分町 装飾

大正4年

大正天皇大礼記念切手と記念印(大正4年11月12日仙台)が押された実逓絵葉書。 大正天皇御大典奉祝行事の仙台市中を写した写真であり、 国分町の旧三原時計店時計塔が写っているが、すでに文字板に針はなく越後屋菓子店の?商号らしきものが描かれている。

明治18年頃に建設された国分町の店舗

東北地方の明治期の時計塔として名高いのは福島の薮内、山形の蜂屋、そして仙台の三原時計店で有る。 江戸時代の仙台は弘前とともに東北屈指の城下町で有り、和時計の生産地でも有った。

三原時計店を創業した三原家の祖は古くから米沢に住み、代々が小左衛門を襲名した旧家で有った。 幕末のころの小左衛門で幼名を幾七郎と呼ばれた当主に4男1女が有った。 この兄弟の中で次男、忠左衛門はいつのころから時計師を業としていたが、維新後いち早く米沢に三原時計店を創業した。(明治5,6年ころ) 時計業開店の機縁は戊辰戦争ののち米沢に入城した官軍の首脳の懐中時計修理を引き受けた事にもとずいていたと言われている。 また忠左衛門の妹むつは同じ米沢の蜂屋時計店初代、蜂屋喜一に嫁いでいる。

忠左衛門は東北人には珍しい江戸っ子気質の瓢逸洒脱な人物であったが嗣子に恵まれず、妹のむつの嫁ぎ先の蜂屋時計店から次男忠冶、 三男庄太の二人を養子に迎えた。 次男忠冶は、この養父に厳しく時計技術を仕込まれ、明治18年ころには仙台市国分町5丁目に屋上に巨大な時計塔を持つ土蔵造二階建店舗を建設するまでに発展、 その当時の仙台の名物的商舗に数えられていた。

時計塔は、白漆喰仕上げ、ローマ数字文字板は直径1.8m時打装置付、 機械は忠冶が東京外神田の京屋時計店の「京屋組」の有力メンバーであった関係からファーブルブラント商館輸入の外国製であろう。

忠冶は後に本店を米沢から仙台に移し、明治38年55歳で没した。 稼業は嗣子、栄吉が継いだが、彼も京屋時計店に弟子入りして時計技術を学び、明治末年頃に国分町の店舗を越後屋菓子店に譲渡の上、 上京し神田鍛冶町に時計卸類の三原時計店を開業した。

かくて越後屋菓子店となった国分町旧三原時計店は業態が異なった為か時計の鍵巻きはいつしか放置されがちとなりやがて時を刻まなくなってしまった。 大正10年頃には店舗はさらに五城銀行に譲渡され間もなく時計塔ともども取り壊されてしまった。栄吉は太平洋戦争の空襲で罹災のち三原時計店も廃業した。

「時計亦楽」(平野光雄著)より

大町 三原時計店時計塔

仙台名所 大町通り

絵葉書 大正

大町の三原時計店であるが残念ながら時計塔の部分が写っていない。 屋根上に三原の文字大看板と店頭にウオルサムのポスターを模した三原時計店の大きな看板が面白い。

(仙台名所) 大町五丁目 SENDAI

大正

この絵葉書では大町の店舗の時計塔が確認できる。 時計塔は、やはり京屋組の特徴であるとんがり帽子スタイルである。

明治29年頃に建設された大町の店舗

三原忠冶の弟、三原庄太は経営的手腕にすぐれ、明治18年国分町の三原支店の経営を兄、忠冶から委任されると仙台鎮台(後の第二師団)御用を指名され、 発展に伴い明治29年庄太は独立して市内大町5丁目に新たに三原時計店を創業した。

店舗は間口7m余、土蔵造り二階建で中庭を持ち後方には蔵をそなえた堂々たる表構えであった。 明治36年には店舗屋上に白漆喰仕上げの巨大な時計塔を設置した。 機械はファーブルブラント商館輸入の外国製で文字板1.8m八角形の鐘塔及び台はスレート葺、 上下に手摺様の装飾金具を取り付けた和洋折衷様式の壮大な時計塔で有った。 そして時計塔に良くマッチした下部の「三原」の二字を刻んだ大看板は御影石を用いたという。

かくて庄太は仙台市商工会議所の要職に推挙されるなど、山形の蜂屋時計店と共に東北地方屈指の時計商として功なり名を遂げて、大正6年56歳で没した。 稼業は嗣子の2代目庄太が継いだ。(現在の三原本店) 三原時計店時計塔は3代にわたり大町界隈の景況を飾っていたが時代の推移に伴い店舗改築するために昭和2年春、時計塔もろとも取り壊された。 翌年3階建てビルの新店舗屋上にも新型時計塔が設置されたが、これは昭和20年の戦火で焼失した。 こうしてみると三原忠左衛門父子及び11代目蜂屋五郎兵衛(忠左衛門の甥)は明治年間から東北地方の時計技術普及に多大の功績を残している事が知られる。

参考文献:「時計亦楽」平野光雄著 昭和51年10月25日、青蛙房刊

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