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明治の時計塔

5. 蜂屋時計店時計塔(山形市)

山形市七日町大通り

大正期(鐘塔が擬宝珠型のため)

蜂屋時計店時計塔(明治16年〜昭和45年)

山形市蜂屋家は代々、米沢藩の御鞘職を務め、準武士の家柄で有ったが、幕末頃当主十代目、五郎兵衛は商道に志を立て、 明治14年9月山形市横町に移住して蜂屋時計店を創業した。 その後、明治16年市内七日町459番地に二階建ての店舗を新築して、屋上に時計塔を設置した。 創業の翌年、年齢わずか12歳の長男一二郎を東京神田の京屋時計店に弟子入りさせた。 これがのちの11代目五郎兵衛で京屋組の有力メンバーになった人である。

蜂屋時計店の発展は目覚ましく、同43年9月には旧店舗向かいに新店舗を建てて移転した。 その間、11代目五郎兵衛に養成された徒弟の数は数十名にのぼり、 山形市内を初め、酒田、鶴岡、横手、秋田などに支店を開設(のちに支店はそれぞれの分家に譲って独立させた)、 文字通り、東北有数の時計店として活躍した。

時計塔は東京神田、京屋本店の型を模し、鐘塔は三角帽子型であったが、 明治末年頃改築の際に丸みをおびたギボシ型に変えたのちに文字板をガラス板、アラビア数字に書き換えた。 機械はファーブルブランド商館で輸入した重錘引き外国製で、文字板直径は約1.5m、鐘打ち装置を備えていた。 この時計塔は昭和45年店舗改築のために取り外されたが一時、東京太平の旧セイコー時計資料館に寄託され、 同店の盾獅子印の京屋組の看板と一緒に展示されていた。

山形市七日町大通り之雪景

明治末〜大正初期

ソリを引いている雪景色の向こうに蜂屋時計店の時計塔が見える。

山形市七日町大通り (雪の山形)

大正7年以降

山形市七日町大通り

昭和戦前

山形市七日町大通り

昭和30年代

昭和45年まで使われていた時計塔の後半の雄姿。 向かいに大沼と有る看板は当地で江戸元禄13年創業と言う現、(株)大沼で、 戦後昭和25年に大沼百貨店となり、昭和31年に4階建ての新店舗を建築していますのでその当時のものでしょう。 時計塔はそろそろ街並みから浮いてきてますが?今あれば間違いなく重要文化財です。

機械はモービエクロックを改造したもの?

機械の現物を見てはいませんが、資料館紹介記事やTV放映で散見した限りでは、 外観特徴(特徴的なピンホイール脱進機)はフランス製モービエクロックそのものです。 (平野光雄さんはイギリス製機械と書いておられます。) ファーブルブランド商館はフランス製の大時計機械(モービエクロック)を沢山輸入していますので、 それを塔時計用に改造して流用したものではないかと想像できます。 旧セイコー時計資料館の展示資料を見ても機械は意外と小さくモービエクロックに類似して見えます。 本格的なイギリス製の塔時計の機械は高価でしたので、 実際は塔時計の機械はこのようなフランス製機械の流用が多かったのではないかとにらんでいます。

蜂屋時計店時計塔 明治16年竣工

(山形市、蜂屋時計店蔵)
「時計亦楽」より転載

京屋本店の型を模した三角帽子型の鐘塔。

セイコー時計資料館での展示風景

小冊子「博物館めぐり-39」より

(セイコー時計資料館の所蔵資料)

蜂屋本店はおしくも平成13年、120年の歴史に幕を下ろして閉店しました。 このような地方の老舗時計店の閉店は寂しい限りです。 都市文化の継承が都市の個性と競争力を生むと言われています。 町のランドマークとして各地で活躍した旧時計塔を今一度、現代によみがえらせて見たいと思いませんか?

参考文献:「時計亦楽」平野光雄著 昭和51年10月25日、青蛙房刊

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