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スイスの時計産業

2. スイス時計産業の構造

歴史的回顧

スイスの時計産業の歴史は400年前に遡る。 その遥籃の地は宗教改革者カルヴィンのジュネーブである。 彼の教えは贅沢に罪悪の刻印を押した。 かくてジュネーブに栄えていた装飾品工業は死刑を宣告されたのであるが、この工業にたづさわっていた手工業者たちは、 もしその替りに小さな時計という新しい発明品が提供されなかったならば、失業したに違いない。 この時計工業はいかなるギルドの拘束からも離れて自由に成長し、最初から分業を採用し、 部品の制作はヴァートに至る田舎の小規模な手工業者にまで割り当てられた。

この徹底した分業化はスイス時計産業の独特な特徴として今日に至るまで続いている。 ジュネーブのこの時計製造業者と販売業者に対し18世紀に初めて当時はプロイセンの支配下にあったノイエンブルク州に新しい競争相手が生まれた。 ここでも分業方式が採られ、ジュラ山脈の谷間の貧しい百姓たちにも副業が与えられた。 ナポレオンの支配は、特にその大陸封鎖によって、隆盛を極めた時計産業に沈滞をもたらした。 フランスの桎梏から解放された1815年以後、国家が保護措置を加えたことがあるが、これは失敗に終わった。

既に自由貿易の時代が始まっていたのであり、これは一面時計産業に対し強力な飛躍をもたらすと共に、多面また多くの危機をももたらすことになったのである。 スイス時計は世界的に有名となり、その生産地は発生地であるフランス系スイスの諸州を越えてドイツ系スイスまで伸び、ベルヌ地方のジュラ山脈、バーゼルラント、 シャフハウゼン、又その支脈がテッシンにまで拡がった。 ピールとその周辺はスイス時計産業の中心地となった。 百年前までは純粋なドイツ語系であったピールはフランス系時計会社とその従業員の移住によってフランス語が主に用いられる2ヶ国語系都市に変った。

第1次対戦後、交代が生じた。自由貿易の風潮は衰え、企業連合の方式が国家権力の介入と共に拡がっていった。 第1次大戦後の3年間時計産業は短い盛況を経験するが、やがて手ひどい危機に見舞われた。 かくて自衛手段として組織的な企業連合が発生した。

第1図を見れば過去40年の間にカルテルや企業組合及びその下部カルテルや下部組合などの網目がどのように密接に織りなされていったかが判るであろう。 時計産業に関する新条例が表現している改革を理解するには、在来の形態をかなり詳しく分析してみる必要がある。 なぜなら基本構造においては何ら変わっていないからである。

第1図 スイス時計産業のカルテル、金融的統合、組合相互の連繋の図式

企業連合

3つの連合体が頭にあり且つ中核をなしている。 F.H(Federation Suisse des associations de fabricants d'horlogerie スイス時計製造業者連盟)は1924年ビールに設立された。 会員は6つの地区に分かれている。

つづいて1926年末にには2番目の連合体としてEbauches S.A.が創立された。 この創立者は当時スイスにおいて素材加工の80%を行っていた重要な素材加工工場3社---即ち Fontainemelon S.A., A. Schild S.A., A. Michel S.A.であった。 エボーシュ社は12百万フランの資本金をもって、素材の価格安定を計るための持ち株会社としての役割を果し、一方ではアウト・サイダーの株を買い集めた。 エボーシュ社の目的は漸く1934年以降、国家が緊急措置の一環として時計工場の新設には許可が必要であることを決定し、 1936年連合体が規定している最低の協定価格は一般的拘束力を有するものであることを認めた時に達せられた。

第3の連合体は1927年に設立された Union des branches annexes de I'horologerie(UBAH=部品製造者連合)である。 その会員は部品毎にグループを作り幾つかの系統に分かれている。 この3つの連合体,FH,エボーシュ及びUBAHは一つの協定によって結ばれており、FHはエボーシュとUBAHから製品を調達し、 エボーシュは特定の部品をそれに該当するUBAHの系統社から購入するのである。

このほかに1939年になって初めて設立されたスイスRoskopf時計工業者連盟,通称ロスコップ連盟(訳註,ロスコップはいわゆるダラー・ウオッチ)があり現在に及んでいる。 その会員は必要な素材の一部をエボーシュで調達している。

しかしこのような純粋に私法的な連合協定は1930年以降の不況の年になると次第に不十分であることが判ってきた。 20年代にできた最初の連合体間の協定の一つである「シャブロナージュ協定」は失敗に終わった。 (Chabloneは時計の図面付部品一そろいでこの組立には特別な手工業的技術が要求される。 Chablonnageとは時計専門用語でシャブローンの輸出を意味する。これによって国内における労力を省こうとしたのであるが、 外国ではこの組立が適切に行われなかったためスイス時計の評判を傷つけることになった。)

1930年時計界の「基本産業」、即ち素材と「調節部品」(脱進機、テンプ、ヒゲゼンマイ)産業を資本面で集中し、 アウトサイダーから仕事を取り上げるために連合体と関係官庁の間に協議が行われた。 なぜなら新しい会社を設立するには莫大な資本と技術的知識を必要としたからである。 かくしてスイス独特の連合体として、全時計産業の利益を代表する基本産業トラストが計画された。 実際には単に超持株会社の形が考えられていたのである。 その第1の使命は、上記の4産業部門においてアウトサイダーの株を買占めることであった。 このためには時計産業に利害関係がある銀行の参加が必要であったが、銀行側は工業連合体側と平等な加盟条件を主張した。 この超時計会社にはエボーシュ社が過半数の株を持つことになった。 これに加えて銀行からクレディットが予定された。 「無価値な有価証券」の償却のために工業者側によって「共同資金」を準備する構想が建てられた。 最後に脱進機部、テンプ、ヒゲゼンマイという最も重要な構成部品の集中は当該企業を左右しうる株(過半数)を獲得する形で考えられた。

かくて1931年 ASUAG(Allgemeine Schweizer Uhren AG)が設立された。 これには更にスイス連邦も参加し、株式で6百万フランを出資し、7.5百万フランの無利子融資を行った(この貸付金は戦争が終わるまでに全部返済された)。 基本産業のこの企業集中には総額53百万フランを必要としたが、その出資内訳は銀行が20.5百万、工業家が19百万、国家が13.5百万である。

この規則は厳しいものではあったが形の上では私法上のものにすぎなかったので、 委任立法に基いて公布された1934年3月12日の連邦議会の議決により公法的に補足されることになったが、 この議決は時計工業の分野で新に企業を創立する場合、在来の企業を拡張、移転、組織変えする場合には許可を受ける義務があることを規定し、 また時計産業に関する協定条項に反する場合は加工素材、シャブローン、懐中時計の部品の輸出を禁ずる旨を宣言している。 これに加えて1936年国家は最低価格に関する規定を承認した。これによって私法的にも公法的にも組織が完結したのである。

今日に至るまでASUAGの出資割合は変らず、銀行側と工業者側が夫々5百万フランを受持ち、 国家の持株である6,000株は、最初1株1,000フラン払込まれたものであるが、その後1株1フランになった。 けれども前2者と同様(1949年以来)払込資本の最高3.5%の高い配当を受けている。 なお興味ある点は、工業者側の5百万フランの半額を受持っているのは、 FH,UBAH及びエボーシュ社であり、残りの半額は個人株主であり、彼等は以前の工業所有者で工場を買収されてその分を株で支払われた人達である。

現在ASUAGが統制化に置いているのは、エボーシュ社、脱進機工業連盟、テンプ工業連盟、ヒゲゼンマイ工業連盟及び時計工場3社--- 即ちグレンヒュンのエテルナ社、ベットラッハのEd.クンマー社、トラメランのA.レイモンド社である。 エテルナは高級時計、クンマーは中級時計、レイモンドは廉価時計の製作工場である。 こうしてASUAGは時計産業界全体に亘ってにらみを利かしている訳である。

厳重でギルドを思わせる時計産業の体制はまだ他の組織相互の間を画然と隔てていた。 かくて1946年になってはじめて"Termineur"(組立業者)の地方組合が一つの上位組合にまとまった。 Termineur というのは、数年前の算定によると540現存することになっていたが、"Etablisseur" から部品を入手し、 その依頼によって組立を行う専門工のことである。 Etablisseur と云うのは、その部品の大部分を更に部品工場から調達している製造業者のことである。 (Manufactur というのは全部品又は大部分の部品を自分で製造し組立ている者を指す)。 ここで先廻りして付け加えておくと、以前の規定ではTermineur はEtablisseur になることは禁じられていたが、 1962年の新時計条例によれば許されることになった。

また1928年来通称 Fidhor "Fiduciaire Horologere Suisse" と呼ばれる「スイス時計産業信託所」が存在し、 銀行から時計産業へ、(部品)供給者から工場へ、輸出業者から顧客へのすべての信用取引をコントロールする仕事をしていた。 ついで連合体規約及び協定条項の実施監督及び1943年連邦議会で公法的に決定された工場新設に伴う許可と時計製造機械、 部品その他の輸出の許可の監督も引き受けることになった。

スイス時計専門業者の3分の2すなわち1,000人を包含するのが「スイス時計匠中央連合(Zentralverband Schweizerischer Uhrmacher)」で "Groupment des Fournisseurs d'Horlogerie"(時計部品供給者団体)との間に競争を規制する協定を結んでいる。 しかしアウトサイダーも充分仕事を維持することができた。 また輸出に関しても、製作者と卸業者との独自の組合がある。

経営者団体と労働組合との間には緊密な協力関係が成立している。 最も重要な労働組合である「金属・時計労働組合」は、時計工場主とではなく、機械工場主と1937年の所謂平和協定を結んでいるが、 これはもちろん時計産業界にも効力を有するものである。 時計労働者の賃金は、製図工の賃金について最先端を行くものである。 さらに時計労働者はすでに多年来有給休暇を獲得している。7月に各工場は少なくとも14日間閉鎖される。 「時計工休暇」はスイスでは一概念になっている。

時計産業における時間当り平均賃金(単位フラン)

最後に1876年に創立を見た時計最古の機関である「スイス時計会議所(Schweizerische Uhrenkammer)」について述べておきたい。 最初それは時計を生産していた諸州の商業会議所の性格を有していて、関係州政府の監督下にあったが、1948年頃政府から独立し、各時計連合体が議席と議決権を有する機関になった。 会議所は法律発布などに際しては国家に対し時計産業の利益を代表し、また初期の頃から外国の競争相手の監視という使命を担っている。 後には輸出監督及び輸出援助もまたその仕事となった。 会議所は"La Suisse Horlogere" という週刊紙を発行し、また年に4回外国向け宣伝パンフレットも刊行している。 さらに職人養成の振興にも加わり、Laboratoire suisse des recherches horlogeres(スイス時計研究所)、 Societe suisse de Chronometrie(スイス時刻測定協会)及びノイエンブルグとジュネーブの観測所を後援している。 時計会議所の組織改編が行われた時、その権能の一部は新しい補助的統制機関であるC.O.H.(Commision des organisations horlogeres, 時計業者団体委員会)に移譲されることになった。 C.O.H.は時計会議所とF.H.,UBAH, Roskoph連合、エボーシュ社等の大連合体の共同組織である。 C.O.H.には、内国問題のためのComint,国外問題を扱うComex 及び生産性問題に携わるCoprod の3協議委員会が置かれている。

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