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東洋時計・吉田時計店

1. 吉田時計店・東洋時計・オリエントの概要

THE YOSHIDA WATCH CO.
IMPORTERS & WHOLESALERS.
12. MOTOKUROMON-CHO, SHITAYA-KU,
TOKYO.

オリエントは、 1901年(明治34年)、吉田庄五郎氏が東京上野元黒門町に吉田時計店を創立し外国製時計の輸入販売を開始したのが創始である。
1913年(大正3年)頃から菱形にYS印の懐中時計金側(タバン、ナルダン、チソット、ウオルサム用など)の製造を開始し、 1920年(大正9年)には蒲田竹次郎氏(蒲田時計測製作所)と協力し東洋時計製造所を下巣鴨に設立、 製造の主力は置時計等のクロックでウオッチ系(懐中・腕時計)はチソット、レオニダス、オメガ、エニカ、 タバンなどの舶来品を販売していた。
昭和9年(1934年)にシーマをモデルにして腕時計業界への進出を企画し、昭和11年3月に清洌な多摩流域を選んで白亜四階建の堂々たる 日野工場が完成した。製造された腕時計は「Locle」「Aikoku」などである。
戦時中は全面的に航空兵器製造に切り替えられたため技術の空白域となり戦後の競争の遅れをとったが、 終戦により1945年(昭和20)年には東洋時計製造株式会社として操業を開始、 しかし戦時中の拡張過重のために戦後経営が混乱状態になり、やがて会社は整理、工場は閉鎖の止む無きに至った。

解散した東洋時計製造株式会社は、埼玉県に置時計工場があり、これを「上尾工場」といい、 東京都南多摩郡の腕時計工場を「日野工場」と呼んでいた。

その後、上尾工場を主体として置時計専門の製造会社「新東洋時計株式会社」が新生、 一方、日野工場を母体に腕時計専門の製造会社として生まれたのが「オリエント時計株式会社」である。

東洋時計日野工場の残留社員が集まり、主力工場であった東京都南多摩郡所在の日野工場の施設一切を借り入れ、 昭和25年7月13日、資本金100万円の多摩計器株式会社を創立し、本社を東京都中央区銀座7丁目に置いて、 本格的な工場再建を努めるところとなり、翌昭和26年4月に社名をオリエント時計株式会社に変更、 同7月には社員300名を以って「NEW ORIENT (CENTER SECOND)」等の腕時計を 月産5,000個生産の他、輸出用超小型ポールベアリングを製作するまでに回復した。

参考文献 「吉田時計店定価表 昭和6年1月号 NO.517」
「時計技術者の新知識 パロマ出版株式会社 昭和37年4月発行」
「時計とレンズ NO.8 日本時計学会 昭和26年8月1日発行」

日野工場の戦時資料「女子工員募集」

女子工員募集

配属工場名 東京府南多摩郡日野町 株式会社 吉田時計日野工場
中央線日野駅下車徒歩十五分、多摩川畔ノ風光佳キ田園地帯ニ在リ近代的設備ヲ有ス
従事スル仕事
兵器部品及ビ計器類デスガ非常ニ容易デアリ且ツ悪臭ヤ粉塵ノ発散ナク健康ヲ害ネル心配ハ全クアリマセン
資 格
満十三歳以上デ志操堅実健康ナル方

戦争だ!! 増産だ!! 株式会社吉田時計日野工場が戦時中に航空兵器部品の製造のために工員を募集したときの貴重な資料です。

昭和22年の毎日写真ニュース

海を渡る日本時計

ズラリとならんだ目覚時計の行儀よさ、向うのたなにのんびりしてるのは掛時計。 だれです、一つ欲しいなんておっしゃるのは? チクタク、チクタク 聞こえるでしょう。 彼女たちの鼓動は高なっています。 何故って近く海を渡って香港へ南支那方面へ船出するんですもの。 キット彼女たちは日本の声価を高めてくれるでしょう。 --- 東洋時計工場にて

戦後日本の時計(東洋時計)が香港、南支那に輸出される時計を東洋時計工場にて撮影したニュース写真です。

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