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和時計概論

1. 和時計とは

和時計とは、江戸時代に日本で作られた不定時法の機械時計の事を言います。 また初期においては大名の専有物で有ったため、大名時計とも呼ばれています。

日本へ機械時計が伝えられたのは1551年(天文20年)フランシスコザビエルが周防の領主、大内義隆に贈ったものが最初とされています。 江戸時代の職人たちはそれらの外国の時計から歯車や調速の技術を学び、 日本の時刻制度(不定時法)に合わせた独自の時計(和時計)やからくりを初め様々な機械仕掛けに応用していきました。 江戸時代の日本の時刻制度は、太陽暦を採用していた西欧と違って、 季節により昼と夜の一刻の長さが変動する不定時法(太陰暦)を用いていました。 その為、自分たちの生活に合うように改造を行い、世界で唯一、日本だけが不定時法の機械時計を作り上げました。

江戸時代の日本は鎖国によって基本的には海外との技術交流を閉ざしてました。 しかし平和で豊かな社会の中で、独自の技術文化が生み出されていきました。 わずかながら伝えられた海外からの先端技術のいくつかは江戸時代になって大名、貴族や富豪だけでなく、庶民生活にまで普及、 浸透していったのです。 この過程で伝わった技術は単なる「物まね」ではなく、改良と工夫を重ねながら、機械に人間が合わせるのでなく、 機械を人間や社会に合わせるという日本独自の変化を遂げたのです。

自然のリズム、季節の変化を刻むことのできる、日本独自の創意工夫でで完成させた不定時法の機械時計「和時計」や 「からくり」のように、庶民らも楽しんだ機械には、旺盛な好奇心と探究心に満ちた江戸時代の「ものつくり」が実現しています。 これらの和時計は明治6年の改暦により西欧と同じ定時法(太陽暦)を採用することにより、その存在意義を失い、 同時に大量になだれ込んだ外国製のボンボン時計に取って代わられ終焉を迎えます。 とはいえ、その後の日本の西洋技術吸収、発展にこれらの明治以前から培われてきた技術が大きく寄与したことは、 もっと知られて欲しいことです。

ハイテク日本の技術的の礎となったこれらの和時計は、創造性豊かなモノつくり日本の遺産としてもっと再認識、 再評価されるべきでしょう。 その流れを受けて、先年の愛知万博における和時計の最高傑作、田中久重の万年時計の復元と再生は新聞、 TVで詳しく報道されたような快挙でした。

田中久重の万年時計 引札

「萬歳自鳴鐘」発條巻事一歳一度
引札、銅版
嘉永四辛亥春新製(1851年)
大きさ 22x16cm

(個人蔵)

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